2008年10月02日

最後の審判とは善と悪との立別け

最後の審判とは何か



 最後の審判についてこれからかいてみるが、その根本としては言う

までもなく世界的大清算であって、長い間溜りに溜ったところの罪穢

(ざいえ)の浄化作用である。従って余りに穢(きたな)くどうにも

ならないものは、地上から永遠に抹殺(まっさつ)される外はないか

ら、恐ろしいのである。という訳で将来役立つものはもちろん残され

ると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのであ

る。それは口で言えばはなはだ簡単だが、これが人間にとっての脅威

は、前古未曾有(みぞう)の大異変であるから、到底筆や言葉では表

わせないのである。つまり根本は、善と悪との立別けであって、善人

は無罪となり、悪人は有罪者となる訳で、決定的審判が行われるので

ある。従って現在地上にある人間ことごとくは、裁きの前の動物に等

しき運命に置かれているのだから大問題である。しかも悲しいかな、

赦(ゆる)される者は極く少数で、救われない者の方が大多数である

事で、その割合は数字では表わせないが、大体右と思えば差支えない

のである。

 もちろん日本人も同様であるから、助かりたい人はこの際至急頭の

切替えをする事である。この事は昔から各聖者が神の代弁者としてハ

ッキリ予言されている通りで、言わばその時が来たのである。それも

人類全部が救われるとは言わなかった。ただ神の大愛によって一人で

も多くを救えといわれただけであって、その使命をもって生まれたの

が我救世教であるから、まずこの認識が何より肝腎である。右のごと

く救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者

はよく心得て置かなければならない。というのは病気を治し救おうと

する場合その見別けが必要である。なるほど誰も彼も一人残らず救っ

てやりたいのは山々だが、右のごとくであり時の進むに従い、救われ

る人と救われない人とは自(おのずか)ら判るようになるからで、こ

れは神意である以上、いかんともし難いのである。従って浄霊を嫌っ

たり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、すでに救わ

れない側に運命づけられたからで、そういう人を何程分らせようとし

ても無駄であり、反って救わるべき人が疎(おろそ)かになるから注

意すべきである。

 またせっかく御蔭を頂いても大病が治り一時は感激しても、時の経

つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるがこういう人はすでに縁が

切れ、滅びの方へ廻ったのだから、手放した方がいいのである。以上

によっても分るごとく、これからは入信させようとする場合、素直に

受入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生(しゅじょう)とし

て諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて

信者諸君はまず善悪を判別する事である。
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最後の審判とは世界的大浄化作用の事

最後の審判とは



 最後の審判とは、キリストによって発せられた言葉であるが、それ

はいかなる時期に、いかなる形によって表われるかという事で、キリ

ストはそれについて全然言われなかったから、今もって謎とされてい

るのである。特に基督(キリスト)者は長い間この謎を解こうとして

いたのはもちろんだが、今もって誰も解き得ないようである。何とな

れば、もし解き得る者が出たとしたら、その人はキリストと同じレベ

ルの人か、またはそれ以上の人でなければならないからである。

 ところが今私によって、この真諦(しんたい)を開明する事を得た

のであるから、これを知った何人といえども驚異の眼を瞠(みは)ら

ない訳にはゆかないであろう。というのは、最後の審判に際し、その

衝(しょう)に当るべき使命を神から与えられた私であるから、それ

は当然であろう。そうして審判という文字だけをみると裁きという意

味で、神様が裁判されるように想像されたり、閻魔(えんま)様が出

現されるように思うであろうが、決してそうではない。ではどういう

訳かというと、一言にしていえば、世界的大浄化作用の事である。


 私は以前から霊界においては、今まで夜の世界であったのが、いよ

いよ昼の世界に転換する時になったという事を説いて来たが、それが

如実に現れるのが最後の審判であって、しかも目捷(もくしょう)の

間に迫って来ているのである。これもかねて知らしてある通り、霊界

においては一九三一年六月十五日を境に、徐々として昼に転換しつつ

あり、最後に到って、決定的大浄化作用が行われるのである。もちろ

んその順序としては神界、幽界、現界というように、三段階になって

進みつつあるが、本当の昼間になった時こそ、すなわち光明世界であ

る。これについてつい先頃、私は今年の六月十五日から、右の最後の

段階である現界が、昼間になる最後の時にいよいよ一歩入るのであ

る。そうして今年から十年間に、光明世界すなわち地上天国の基礎が

成立つ仕組になっている事を知るべきである。

 以上は大体をかいたのであるが、黎明(れいめい)から昼間になる

までには、もちろん漸進的ではあるが、確実に一歩一歩変化しつつあ

る事は、信者諸君はよく知っているであろう。何となれば霊界が昼間

になるにつれて、浄化がドンドン強くなってゆくと共に、浄霊の効果

も著しくなり、現に日に月に治り方が早くなる事や、奇蹟の多くなる

等である。信者諸君が一年前二年前の治り方と、現在と比べてみると

よく分るであろう。このように浄化が段々強くなるにつれて、人類社

会もそれに伴い、変化も激しくなるのである。一切が光明に晒(さ

ら)される以上、相応の理によって、汚れたる者は段々衰えてゆき、

清き者は段々栄えてゆくというように、霊界の浄化の程度と同化され

る訳であるが、実はこれが重大問題である。という訳はいよいよとい

う時になると、いくら人間が頑張ってみても、大自然の力には抗する

事が出来なくなるからで、善悪は判然と区別され悪は滅び、善は生き

残る事となろう。

 右の理によって、罪穢の沢山ある人程、大浄化に耐える事が出来

ず、永久にこの世をおさらばとなるより致し方ないが、それに引換

え、善は易々と生き残り得るのであるから、どんな浄化が来ても、耐

えられる程の状態に置かれていなければ安心出来ないのである。従っ

て最後の審判とは、罪穢の多い人は怖るべきであるが、少ない人はむ

しろ有難いのである。何となれば最後の審判の後に来るもの、それは

この世の天国であって、歓喜の生活者となり得るからである。

 それについて、本教の出現であるが、以上説いたごとく、審判を無

事に切り抜け得る人間を、一人でも多く作るのが目的で、これが神の

大愛であり、私に課せられた大使命でもある。その唯一の方法として

の浄霊であるから、浄霊とは独り病気を治すのみではない。来るべき

審判を無事に切り抜け得る資格者を作るのであるから、この仕事を知

ったなら本教がいかに大きな救世的ノアの筥舟(はこぶね)であるか

を認識されるであろう、本教の名が救世教と言うのも、右の理由に外

ならないのである。以上最後の審判の意味は、大体理解されたであろ

う。

(注)
衝(しょう)、通路。重要な地点。重要な立場。大切な役目。
目睫(もくしょう)、目とまつげ。転じて、とても近いところ。
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最後の審判

最後の審判



 キリストのいわれた最後の審判というのは、何か恐ろしい事が突如

として起り、それによって信仰なき者は亡び、信仰ある者は助かると

いうように、至極簡単に割切っているが、そういう事はないとも言え

るが、有るとも言えるのである。というとはなはだ不得要領(ふとく

ようりょう)であるが、これには訳がある。それは今後の神様の活動

によって、悔改める人間が多くなれば、そのような極端な方法は必要

がないからそれでいいが、そうでないとすれば止むを得ず徹底的に裁

かれる事になるのであるから、この結論は人間次第という事になる。


 そのような訳だから神様は出来るだけ苦しまないで、穏やかな方法

によって改心を促がされるので、ここに愛と慈悲の深さが窺われるの

である。そうして今日までの人類が犯した罪穢の内、最大なものとし

ては何といっても医学の誤りである。従ってこの事を充分肚の底から

分らせ、悔改めさせる事こそ救世上最も根本であるから、私は何より

もこの事に対して、最大級の努力を続けているのである。いつもいう

通り人間の罪悪という罪悪は、霊肉共に病気が原因であるから、病気

を治すと共に再び冒されないような健康人間にする事で、これによっ

てのみ人類社会から、全く罪穢を追放されるのである。


 本教のモットーである病貧争絶無の世界というのもこの事以外には

ないのであるから、この事については一層広範囲に詳しくかいてみよ

う。まず現在の世界は独り人間のみか、何から何まで病気に罹ってい

る。すなわち家庭も社会も、国家も世界も同様で、ことごとく病体で

ある。ヤレ第三次戦争が起ったら大変だといって心配するのも、その

原因は世界的大浄化作用が起るからで、その他社会不安、犯罪激増、

不幸な人々が増えるのも浄化作用であり、各国共思想問題や経済難、

ストライキ等何だ彼んだと碌でもない事の続出するのも、社会的浄化

作用であり、家庭内のゴタゴタ、夫婦喧嘩なども個人的浄化作用であ

る。というように浄化作用のないところは、地球上どこにもないとい

っていいのである。従って今日の世の中を浄化作用のない幸福な世界

にするとしたら、まず人間一人一人の病気を治す事であって、この理

が分れば本教こそ世界を救う宗教、すなわち救世教という名もなる程

と思うであろう。
posted by たく at 11:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリストの火の洗霊

最後の審判



 キリストのいった最後の審判とは、いついかなる形によって現れる

ものであろうかはこれは基督者(きりすとしゃ)はもとより一般人も

知らんとするところであろう。いよいよ時期切迫の折柄、その片鱗を

ここに発表するのである。しかしこれは私個人の見解ではない。全く

霊感によるのであるから、一の参考とし学説として読まれん事であ

る。

 一体、最後の審判なるものは事実あるであろうかを、まず決めるべ

きである。そうして仮にも世界をリードしている文化国民を中心に、

数億の尊信者が絶対帰依している、キリストともいわるる大聖者があ

り得ざる事をあるといって予言するはずはない。もし本当にないとし

たら、単なる嘘つきという事になる。したがって、基督者ならぬ吾ら

といえども一点の疑いなく確信しているのである。また私がこれだけ

は信じている、彼の大本教祖のお筆先にいわく「神の申した事は、毛

筋の横幅も違わんぞよ」という言葉はそのまま審判の予言に当はめて

も間違いないと思うのである。また善悪についてこういうお筆先があ

る。「悪は根絶やしに致して善の世に致すぞよ」「悪の世は済みたぞ

よ」「悪の世は九分九厘で厘止りに致し、一厘の仕組で善の世に振替

えるぞよ」「いよいよ世の切替時が来るぞよ」とあるのはいずれも最

後の審判の意味でなくて何であろう。吾らが常にいうこれがいわゆる

夜昼転換の事である。またお筆先に、「この世の大峠が来るから身魂

を磨いておいて下されよ」というところもある。これは夜昼の転換期

を言ったもので、それを越すためには濁った身魂では駄目だという意

味である。

 以上によって聖書の審判を基礎としお筆先の意味を検討する時、こ

ういう結論になろう。「すなわち大危機が迫っており、それを乗越す

には心が浄(きよ)くなければならない。悪人は転落して、永遠に滅

びる」という意味である。とすれば、どうしても正しい信仰によって

魂を浄め無事に乗越さなければならないのである。しかしながら、世

の中にはそんな馬鹿な事があって堪るものか。神も仏も人間が造った

もので、現実にそんなものはあるはずがないという。唯物主義者は

仲々信じられまいが、その時になっていかに周章(あわ)てふためき

神に縋るといえども最早手遅れで、どうにもならない事になるのは、

火をみるよりも明らかである。もちろん神の大愛は一人でも多くを救

わせ給うのであるから、神意を体する吾らとしては、繰返し繰返し筆

に口に警告を与えているのである。


 この事をお筆先には、「神は助けようと思って、筆先でなんぼ知ら

してやれども、いつも鳴く烏(からす)の声と油断を致していると、

今に栃麺棒(とちめんぼう)をふるって、逆さになってお詫びをせん

ならん時が来るが、その時になっては、神はそんな者にかもうてはお

れんから、身から出た錆とあきらめて往生致そうより仕様がないぞ

よ」とあるのは、それをよく言い表していると思うのである。これに

ついて、ノアの洪水の事を概略かいてみよう。

 これは数千年か、あるいは数万年以前の出来事であろうが、無論古

ヨーロッパのある国に、ノアという名の兄弟があった。その兄が今

日でいう神憑りになってこういう事を示された。それは、近く大洪水

があるから、世人に向かって、大いに警告せよ。というので兄弟はす

こぶる熱心に民衆に向かって警告を与えたが、誰も信じようとはしな

い。数年かかってようやく六人の信ずるものが出来た。神はまた方舟

を造れと命じた。方舟というのは銀杏の実の形をした舟で、すなわち

蓋(ふた)があるのである。ところが暫くして果せるかな、長雨が続

いた。この雨を百日降ったという説と、四十日という説があるが、と

にかく長期間の豪雨には違いなかった。漸次水量は増し、人家はこと

ごとく水中に没し、僅かに山の頂のみが残った。人々は争うて舟をや

り、または高山の上に登ったが、意外にも猛獣毒蛇も人間と同様助か

らんとして、高山に、あるいは舟に登って来た。空腹のため残らずの


人間を喰殺したのであるが、方舟には蓋があるから、登る事が出来

ず、八人だけは助かったのである。その八人の子孫が、今日の白人の

祖という事になっている。


 次に、新約聖書に、ヨハネは水の洗霊をなし、キリストは火の洗霊

をするという事が出ているが、ノアの洪水がヨハネの水の洗霊である

とすれば、キリストの火の洗霊は、いよいよ来らんとする最後の審判

でなくてならない事になる。しかしながら水とは体的であり、火とは

霊であるから、吾らが今行っている、霊をもって霊を浄める方法こ

そ、全く火の洗霊である。すると霊から体に移写するのであるから、

火の洗霊が体的にいかに影響するか、これこそ空前の変異でなくては

ならない。といっても危機は悪に対してのみ表われ、善には危機はな

い事を知らねばならない。
 この文を無信仰者に提供するのである。
タグ:キリスト
posted by たく at 11:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

まとめ

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posted by たく at 11:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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